反面教師 in 大学
ようやく年度末を乗り越えて新年度に突入する。年度末は色々あってそわそわするが、今年は比較的平穏な年度末だった。しかし明日は科研費の結果が出る。本当に当たってくれよという思い。
さて、今日はTwitterでも少し書いた大学での反面教師を紹介する。若手〜中堅の教員には似たような経験をされた方が少なからずいると思う。
私は比較的若く見られる方で、大学での格好もラフであるため大学(院)生と間違われることが非常に多い。実際に見た目で判断するのは非常に難しいので間違えられることは全く気にしていないのだが、問題はその間違えて話すときの態度である。ごく一部ではあるのだが、非常に高圧的・攻撃的で、そのうえこちらが教員とわかると手のひらを返し、おそろしいほど丁寧になるのだ。
こちらが丁寧に話しかけているのにもかかわらず、とても横柄な口ぶり。一番ひどかった人はまともに人の話すら聞かない人もいた。教員と言っても聞いておらず、最終的には職員証を見せることになったこともある。そもそも相手が学生であろうと、丁寧に話しかけてくる人に対して丁寧な対応をしないというのはもはや職員として駄目だろう。もちろん「なじみやすい」という意味で敬語を使わない職員もいるが、そのような人々は敬語こそ使わないが穏やかかつ話しぶりは丁寧である。
おかげさまで、私は研究室の学生にたいして、近い関係でない人と話すときは例え年下であっても丁寧に話しなさいと教えている。正直、上記のケースでは怒り狂いそうになったこともあったが、彼らは良い反面教師だと思ってなるべく怒りはためないようにしている。でもブログに書いてしまうと言うことは、少なからず怒りがたまっているのだろうか。
以上。
査読で不正を見破ったときの話2
前書きは省略。前回の記事を参考にして欲しい。
2つめ、3つめのケースはコピペ。つまり剽窃だ。
査読で不正を見破ったときの話1
査読は面倒だ。最近はいくつかの雑誌でその年のreviewerリストを公開しているようで、それなりの雑誌に名前が載っているとうれしいのだが、それ以上でもそれ以下でもない。ただ現状では査読システムがないとうまく科学が回らないのも事実で、科学に少しでも貢献できればと思って自分の時間を削ってでも基本的に引き受けることにしている。
そしてこれまでに査読において3回「不正」のある論文に出会った。後進のためにも情報を記そうと思う。
1つめは少し前の話。査読で回ってきた論文がいわゆる捏造論文だった。研究室レベルでは過ちが起こらないように性悪説に基づいた対応も必要かと思うが、査読は性善説に基づいて行われる。いつぞやの事件の時になぜ査読者が捏造を見破れなかったのか?などと世間でも問題提起されていたこともあったが、そんなものは査読者の義務ではない。
ということで基本的によほど怪しい論文以外は捏造を疑いもしないのだが、偶然にも気づいてしまった。
その論文には捏造が2つあった。1つはありがち(?)なバンドの写真の使い回し。もう1つは不自然なグラフ。つまりその実験からはありえない値がグラフで示されていた。両方とも普段だったら見逃していたかもしれないが、偶然に偶然が重なり、捏造を見破ることができた。その偶然とは、
- 偶然にもその著者らの先行論文を読んでおり、その先行論文のFigをぼんやりと覚えていた。
- 論文の書き方があまりうまくなく、上記の先行論文との線引きがうまくできていなかった。
- 偶然にもそのタイミングに似たような実験をしていた。
ということである。
捏造を発見するまでの一連の流れを書いていくと、まず査読の際にはFigをざっと見るのだが、そのときに「前の論文とFigの流れが一緒だな〜」くらいの気持ちで見ていた。
本文を読むとやたら先行論文の話が引用なしに混じっていたので「Major revisionでイントロ書き直しだな」と思っていた。そのためにはコメントとして具体例を書かなければいけないので、先行論文を熟読しようとした。そのときである。
「Figの流れどころかFigそのものが似すぎじゃない?」
「こいつら怪しい」
「よく考えたらこの実験でこのグラフ、ありえなくない?っていうかあり得ない」
「こいつら論文全体でやってる」
こんな感じで思考は進み、査読を始めてから30分程度で疑惑は確信に変わった。貴重な時間を削っているにもかかわらず捏造論文が回ってきたので内なる怒りが爆発。
著者にはとりあえずイヤミたっぷりのコメント。「内容が先行論文とmixed upされている。図も先行論文のものとmixed upされている。図のラベルと大きさは変わっているけどね。あと、グラフおかしくない?その実験じゃそうはならないよね?ってことで、先行論文と今回の論文の両方の生データ全部見せるべし。」(実際はもっと丁寧な言葉)みたいな感じで。5行くらいだったと思う。もちろん弁解の機会を与えるためにMajor revision。
そしてエディターには「こいつら捏ってるだろうからよろしく。判断は任せる。」と、パワーポイントに酷似したFigを2つ貼った参考資料まで準備して発射。
そして1ヶ月後、当たり前のことではあるがrejectになった。どういう弁解をするのか少し見てみたかった気持ちもあるが当然の判断であろう。今回は運が良く捏造を見抜けたのだが、偶然が重ならなかったら見過ごしていたかもしれない。それを考えると科学論文とはおそろしい。
ちなみにこの論文の投稿先はお世辞にも良い雑誌とは言えないインパクトファクター1.5くらいの雑誌である。これくらいの雑誌であればばれないと思ったのであろうか?
最後に、今悩んでいることある。なんと先行論文にも同じようなありえないグラフがあるのだ。おそらく先行論文も捏造なのであろう。こちらをどうすべきか...あまり考えたくもない悩みである。
以上。そのうち2、3も。
より生産的な一日にするために
今日という一日をより生産的な一日にするために、一日のうちの無駄な時間をカウントしてみた。
- Yahooニュースなどの時事ネタ閲覧:15分くらい
- TwitterとブログとFacebook閲覧:10分くらい
- ラボから事務への往復x3:15分くらい
- 自販機まで飲み物を買いに行く時間:5分くらい
- どうでもよい新学期の講義に関する交渉:5分くらい
合計50分。なんと1時間弱も無駄にしているという衝撃の結果になった。逆に言えばまだまだ生産性を上げられるということである。
それはさておき、今日は共著者に論文ドラフトx2を発射することができた。これらの論文に関して今日やったことは人に見せる体としての最終仕上げだったのだが、それが一番面倒である。どうせこれらの論文は良いところにはいかないだろうが、基礎研究者として論文を出さないわけにはいかない。論文を出さないことは基礎研究者としては何もしてないこととニアイコールだからだ。できれば今年度末までには投稿したい。
あとはリバイスx3。1つは超 minor revisionでほぼアクセプト(のはず)だが、statusがなかなかacceptにならない。もう1つは何とかなるか。最後の1つは大学院の学生さんの仕事なので、学生さん待ち。これが一番大変で、どの段階で助け船を出すべきかはかりかねている。
とりあえずは大きな論文は出ないけど、そこそこのアクティビティを保てているのでほっとする。さて、精進精進。
以上。
ライフイベントとかライフワークバランスとかその1
賛否両論あるとは思うが、自分の視点から書く。
最初から言っておくと特にオチは無い。公開が遅れたのは、長文を2分割していたことと、色々偏った思想の人なんじゃないかと思われかねない文章が所々あったので修正していたことによる。直接話せば誤解も簡単に解けるだろうが、文章というものは残酷である。このブログを読んでいる方々にも私の意図しない受け取られ方をされるかもしれないのだ。ということで何かあったらコメントにでも書いていただきたい。随時訂正する。
少し(?)前から、色々なところで女性教員限定の公募を見る。以前Twitterにも書いたが、公募は業績、コネ、タイミングが大きな割合を占めている。そんな中、自分にぴったりの公募の知らせがJREC-INから届き「よっしゃー、もらったぜー、うひょー」と思い、募集要項をしっかり見たときの「女性限定」の文字。あのときのがっかり感はもはやブログでは伝えられないレベルである。以前からも「同じ評価の場合は女性を...」という記述を見る度に複雑な思いであったが、とうとうここまできたかという感がある。とはいっても女性教員の比率目標30%(だっけ?)を目指すという政策なのである程度諦めてしまっている。後進のためにももっと積極的に文句を言った方がよいのだろうか?
話は少しそれるが、実はこの政策で一番割を食っているのが自分を含む若手~中堅の男性研究者である。既にパーマネントの職を得ている男どもは対象とならないので、必然的に新規公募での女性採択率が高くなる(=上記のような女性教員公募となる)。そのためステップアップや異動を考えている若手、中堅男性研究者にはやや不利な状況になり、ベテラン男性研究者は安泰なままである。これはおかしい。結果としてのパーセンテージにこだわるのであれば、せめて年齢層ごとに区切ってくれないだろうか?少なくとも自分の分野の+-5歳の年齢層では女性教員は30%を超えている気がするのだが...何か公的な情報求む。
さて話を戻すと、上記のような公募が行われている。自分も妻子持ちなので妊娠、出産、子育てがいかに大変かはわかるつもりだ。そしてそれらのライフイベントは男性よりも女性に大きくのしかかるのは間違いない。そしてその大変さに加えてやはりある程度の年齢(=現状ではストレートで行くと一番研究が面白く成長できる頃)という制約があるので、ライフイベントのある、あるいは将来的にあるであろう女性研究者を支援するのは当然だと思っている。
しかし周りを見てみるとどうだろうか。例えば私の職場・分野で女性教員が増えたのは確かだが、この政策が意図するような教員が増えたかと言えば全くそうではない。
(諸事情により「経験できなかった方」への配慮に欠けるかもしれないが、そういう意味は含まない。文字だけで伝えるのは大変だ)
これ以上は書かないが、このような状況でも大学は女性教員の割合を増やした、男女共同何とか達成...みたいになるのだろう。だが、それは違うんじゃないかと。
全く落としどころも無く、具体的な代替案があるわけでもないのに偉そうだが、こう考えていると結局今のままではダメだという結論に達する。比率目標が変えられないのであればせめて「現場」でもう少し政策の本来の意図に沿った採用はできないのだろうか?
以上。そのうち2(野郎研究者のライフイベントについて)も書く。